「形のある哲学」が関係性の質を下げている。

「形のある哲学」が関係性の質を下げている。

形のある哲学が、実は関係性の質を下げる原因。

経営者ともなると、一つ一つの選択・判断・意思決定のスピードを速めていきたいと思う。

だからこそ、形のある哲学を用意して、自分のやるべきことを決定して、その方向に進むしかないと思っている。

しかし、なんか別角度から話がやってきた。でもこれを受け入れてしまうと、構築した哲学が破壊されてしまう(と、思いたくもない)。役員に相談しようか?メンターに相談しようか?それとも、妻に相談しようか?どうする?

このように、常に判断をし続けている責任者は、意思決定に迷うシーンは多いですよね。さらには、その中で意思決定を行い、社員を守ってきたという自負もあるかと思います。

現に、私もそうです。

守るという前提を持ちながら、事業を拡大していきたい、世の中により大きく貢献できる企業でありたいのであれば、新しいことにチャレンジしていかなければなりません。

世界的な企業になるには、マーケットを読んで新しい流れを自らつくる企業であることは間違いありません。そこに、金脈のようなニーズを発見し、勝負を仕掛ける気概が必要です。

では、そのような意思決定をするにあたって、邪魔になってしまうものは何でしょうか?

実はそれが意外にも「形のある哲学」です。なぜ、人間は哲学を持つのでしょうか?

その理由は明確で「人間がなんなのか、自分が何なのか分からないから」です。

分からないが故に、客観的な論理も含めた、自分なりの思い込み論理を展開していき、「自分はこういう人間だ(と思う)」という結論を導きます。

意思決定の際は、その人間観をベースに使わないとなりませんから、必ず自身の考えが制限されています。しかし、そこに囚われないと意志の力が生み出せず、経営ができないという矛盾が発生しています。

この矛盾から発生する特質した問題に、関係性の質が制限されることがあります。

「私は◯◯だ」の根本的変化から関係性の質の変化が生まれる

つまり「自分とは◯◯だ」という制限から抜け出さないために、これは良い、これは悪いという判断基準からも抜け出せず、関係性が固定されます。

いくら会社を、解散しようとしてみても、ボードメンバーを総入れ替えしても、有形化した哲学が固定されている限り、何もリセットが起きていないということです。

結局、自身の正しさのみが頼りですから、そこに依存するしかなくなり、必ず「いい」と「悪い」が存在し続けます。

これでは、大きな世界的ビジョンを掲げたとしても、味方も作りますが、敵も作り続けることにしかなりません。

この矛盾を抱えたまま経営するのか、それとも、それを根本的な変化を自らに行っていくのか?

実はその二つしか、人間は選択することができないのですよね。

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