「中庸」「ありのまま」のワナ
最近は色んな成功哲学でも、「中庸」の良さを語りますね。
◯でもなく、×でもなく、「中庸」がいいですよね。という風に。
しかし僕は、「中庸」を提示すれば逆に、境界線が増えて苦しくなりませんか?と、提案します。
ちょっと一緒に、考えてみてほしいんです。
そもそも、◯があるから×が出現しますね。×があるから◯が出現しますよね。
つまり、◯と×の境界線があるから、◯と×が生まれているんです。さらに考えてみましょう。
「◯でも×でもない」という、「中庸」という名の、境界線を引いていることなんですが、「◯でも×でもある」と、「◯でも×でもない」が出てきました。
これ、逆に境界線が増えてませんかね?
概念が発生した瞬間に、裏が発生します。「中庸」が出たら「中庸じゃない」が出ます。
そうやって境界線を引き続けていけば、自分の判断基準がどんどん狭くなりますね。
これが二元論の限界です。
いくら良さげな概念を、発生させたとしても、かならず裏が発生してしまいます。
オモテウラ関係から抜けられてないのに、「中庸」「ありのまま」なんて、聞こえのいいこと言ってる事は多いですが、「そこに再現性はありますか?」と、聞いてみてくださいませ。
もしあなたが、「◯も×もないんだけどね〜」と言っているならば、「◯も×もない」と「◯も×もある」という、二元論を展開している事です。
だからこそ、明確な定義が必要です。本物の「中庸」とは何でしょうか?
実はそれを知る事が、あなたの中にある、境界線を消すスタートラインです。
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